カスタマーレビュー
自らの「宗教観」を問い直すきっかけに。私は戦争を知らない世代だが、「勝つ見込みの無い戦争」であった大東亜戦争を、「天皇陛下のため」「お国のため」に勇敢に戦って散った我々の父祖を、「狂信的天皇絶対主義で洗脳されて犬死にした」などという言説には本当に腹が立つ。といって、「『国家神道』というものを日本国政府が全国民に『強制した』時代があった」ということ自体に反論するすべもなく、直感的に「どこか間違っている、矛盾している」と思うだけで歯がゆい思いをしていたところであった。 新田氏は、明治初期の政府の宗教教育方針からGHQによる『神道指令』にいたるまでの道のりを丹念に見直し、『国家神道』という幻想を作り出し、それを政府が「強制」したという事実があったように見せかけたのは「誰」だったのか(あるいは「何」だったのか)等など、これまで「当たり前」と思っていたことを悉く覆して見せてくれた。 何度も膝を打ち、目から鱗がはがれて、胸にわだかまっていたモヤモヤがすっきりと消化された気分である。 ちなみに私の実家は浄土真宗であるとつい最近母が亡くなって初めて知ったのだが、人畜無害の「ご都合主義的仏教」と勝手に思っていた浄土真宗の恐るべき「野心」の事実を知って愕然とした。無知は時々罪でさえある。 日本人の「宗教感情」というものが、多くの人が「無宗教」と思ってしまうほどに土着的に身に染み付いていることを改めて感じた。「天皇」の存在そのものに対する国民の気持ちも、「強制されたから仕方なく持つ」類のものではないということを、本書が証明してくれたような気がする。どこか問題意識がずれています 確かに筆者のおっしゃるとおり、国家神道、現人神という概念が国家の公的建前となったのは30年代以降かも入れませんが、以前から政治の中心は天皇で回っていたのではないでしょうか。小学校には御真影が奉られていて、 児童は必ず敬礼させられました。 もちろん明治維新は王政復古で始まったわけですから、明治維新以来、 天皇の威信が国民をまとめるのにどのように活用されてきたかという動きとあわせて、その思想史的な位置づけの移り変わりも書いていけば、多くの読者は納得できたでしょう。待望の書いかなる国もそうであるように、近代日本の歩みも「宗教」と切り離しては考えられず、その正確な認識が不可欠であるにもかかわらず、この方面に関する的確な分析に、これまでお目にかかったことがなかった。相当の学識ある人でも、「国家神道」「現人神」については、それが昭和のある時期にねつ造された幻想であることとに寸分も疑いを抱かず、幻想を事実と思いこんだまま、通俗的な誤った議論を展開している。この憂うべき状況に、声を荒立てるのではなく、淡々と史料に語らしめ、俗説を糾す本書は、まことに待望の書である。
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